西部木材工業 福田専務を訪ねて
~林業と製材業と家大工の関係について~
今、日本の住宅業界では切妻や寄棟といった在来工法や伝統工法が深刻な崩壊の危機にある。
それらの建物は中心を失いあたかも浮遊しているようで安定感がない。
この現象を一言で言えばデザインからアートへの変向と言うのだろう。
つまり、デザインがバランスを基軸にシンメトリーを多用してきた歴史を捨て或いは逸脱してどこか危うさの漂う芸術へと舵をきったということである。
つい先頃、久留米の古刹を訪ね、苔むした一群の切妻や寄棟の伝統的神社建築を目の当たりにした。その威容は実に堂々として荘厳であった。
比較の対象とは言えないがそれに比べると中心を失いチープな様を呈する現代住宅は情けないほど趣がない。
「和」という言語で括られる日本の文化とは一体何なのだろう?
またそこで度々語られる「本物」とは?
現代文化は張り物文化である。どこを見ても張り物が溢れている。FAKEが跳梁跋扈している。果ては、木造建築と標榜するが、一本の木すら見えない家がある。そこに本物を見つけるのは困難である。
ところで、これから先、果たして期待通りに家は建ち続けるのだろうか。
少子高齢化社会の到来はそんな淡い期待を阻む。
加えて主なき空き家は増加の一途をたどり、景観は朽ち果てていく。
だとすれば、建物を立てる事にかまけるより建物の価値を維持継続するための手段や方法について検討することが重要だと思う。
しかもアントニオ・ガウディのサグラダファミリア教会ではないが完成させるのではなく彼方にある完成に向けて作り続けていく、つまり常に進行形の発想も必要になっている。
加えて、修復に25年の歳月を要すると言われている久留米の梅林寺の修復工事を見て修復の重みも痛感した。
近代建築が繰り返してきたスクラップド アンド ビルドという破壊と新築というサイクルではなく英語で言うrestoreの、更新や維持が重要な意味を持つ。
その為の素材開発やスキームの構築が喫緊の課題といえる。
そうした抜本的な意識改革が徹底される時、日本の住宅建築の新たな骨格が見えてくると思う。
ただその時、化学の力を借りひたすら不純な不燃性や堅牢性に集中するのではなく木という素材の特性を歪めることなくそれを当たり前のことと受け止めた上で建物と向き合うことの方が健全だと思う。
県が進めた「クリーク対策事業」の意義や効果については何の異論はない。
しかし、一気呵成に樹皮を剥いでいく皮剥ぎ機の過激な動きが脳裏をよぎる。それは仕口を駆使する繊細な宮大工の作業とは異次元の一切の情緒を排除する近代文明の理不尽な振る舞いが垣間見える。
土木資材としてではなく、建築資材として一層の拡販を期待するのであれば
現代の住宅建築に潜む中心の喪失と完成と仕事の持続性の関係についてもっと言えば
日本文化とは何なのか?日本とは何なのか?を再考しなければならない。
石は積み上げる。木は組み上げる。
西欧と日本、文化の基本には大いに違いがある。しかし完成は滅びの始まりであり、
未完に滅びは無い。それは洋の東西を問わない。
最後に長時間お付き合いいただいた福田専務に感謝申し上げます。
関光放浪記第2章より